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この病気と付き合って4半世紀
                    Naoto


1989年9月11日、私は銚子市立総合病院精神神経科に入院した。後の自己分析による原因は、たぶん「長い5月病」の慣れの果てのような気がする。

 1986年4月、私は東京のK大学法学部2部法律学科に入学した。当初、私はアルバイトでもして、学費と家賃と光熱費くらい親に出してもらえればいいやと思っていた。しかし、父が、「昼間部(1部)に転部しろ!?」と言ったので、私はそれから約半年、受験勉強以上の猛勉強をした。結果は合格できたのだが、反動でほとんど勉強もせず、野球観戦や徹夜でビデオ鑑賞やゲームをするようになった。更には、ミニコミ作りのサークルでのワープロ打ちも徹夜したりして、自然と十分な睡眠がとれなくなってしまったからだと思っている。

 入院後3か月で退院し、翌年の4月から、大学に戻ったが、状態は良くなるどころか悪化してしまい、1991年の2月頃、再び同じ病院に再入院してしまった。この2度の人生のピンチを救ってくれたのが、N・K医師だった。先生は、私が「いつまで薬を飲み続けなけらばならないのですか?」の問いに、「予防の為に飲んでおこうよ!?」と言ってくれたので、服薬はほとんど欠かさないようになった。2度目の入院を終えてからは、実家の自営業を手伝っていたが、2010年の2月頃、取引先の事務員の女性と口論になり、それを機会に体調を崩し、旭中央病院に3度目の入院をした。この際、自分の診断が統合失調症から、双極性障害に変わり、服薬量も一時的に増えた。その年の5月18日には、退院して、6月からデイケアセンターに通い始めた。しかし、諸事情により2012年4月をもって自営業を辞めざろう得なくなり、2013年9月頃までは、地活センターなどでパソコン等をやっていた。現在は就労支援B型作業所に週4日、デイケアセンターに週1日通い、土曜日はピアグループの活動に参加している。

N・K医師以降、私の担当医は何度も変わり、通院先も変わったのだが、私にとって、もう2人、感謝している精神科のスタッフがいる。一人はK・F医師、もう一人は、臨床心理士のK・Kさんだ。K・F先生は、産休ギリギリまで、私の4度目の入院(リチウム中毒)に立ち会ってくれた。臨床心理士のK・Kさんは、私がある資格の勉強をしていて、テンションが高くなっていると指摘してくれて、救急外来や担当医以外の精神科医の診察を世話してくれた。いずれにせよ、自分の人生のピンチを救ってくれた恩人には変わりはない。

精神科医療は、まさに「人と人とが支え合っていく医療」だと私は考えます。必ずしも精神科医の薬の処方が正しいわけではないし、臨床心理士やPSWも正しいアドバイスを必ずしてくれる訳ではないと思う。

この病気と付き合い、まだ先はみえないが、病院や作業所のおかげで、自分も「人の役に立つ仕事がしたい?!」という意識が生まれ、作業所のY理事長の推薦でピアサポーター講座を受講できたことは、非常に感謝の気持ちで一杯です。そして、長期目標として、ピアサポーター、ピアスタッフとして雇用させていただければ、自分の未来がそこに見えるような気がします。

 この病気に関する経験、体験、薬の知識等、自分のものさしで相手のものさしと比較し、当てはまることは積極的に活用し、そして必ず相手を尊重してコミュニケーションをとること・・・それがピアサポーターのあるべき姿ではないだろうか!?

 今後、何年かかっても、ピアサポーター、ピアスタッフとして雇用してもらい、生涯、働けることが、私の長期目標です。

 人のために、人と人とが支え合い地域に根付いた精神医療のために、私も何かお手伝いすることができたら、嬉しく思います。   
                    

提出日 2014年3月12日